今はもう赤字の経営状況となっている北越急行ほくほく線だが、そもそもなぜ作られたのは、廃止の可能性もある中で、建設された理由と今後の情勢について見てみよう。
北陸新幹線が開業する2015年3月までは、ほくほく線には特急はくたか号が運転されていた。越後湯沢~金沢間を走る特急列車で、首都圏と北陸地方の大動脈という性質があった。
しかし、北陸新幹線ができたことで北越急行ほくほく線の特急は廃止された。今は完全なる地方のローカル線となっている。廃線になるかもしれない。
豪雪地帯の交通手段のために建設
もともと北越急行ほくほく線の通るルートに鉄道を建設する計画はすでに戦前から存在していた。越後湯沢・十日町駅辺りから直江津駅まで直線的に走る路線が計画されていた。
戦後の高度経済成長期になっても、新潟県中越地方の新線計画は盛んに行われてきた。田中角栄の手腕のよるところも大きかった。
1960~70年代は北越急行の建設を前向きにとらえる声が強かった。自動車が普及し始めていた時代だったが、この地域は豪雪地帯ということもあって冬場の交通手段としての車にはデメリットがある。
そこで鉄道路線の建設を積極的に推し進める動きが止まることはなかった。
国鉄として建設される予定だった
運営媒体 | 最高速度 | 結果 |
国鉄 | 95km/h | 凍結 |
第三セクター | 95km/h | 特急列車運転の案が急浮上 |
第三セクター | 160km/h | 採用 |
もともとは国鉄の路線として建設されることとなっていた。高度経済成長期だった頃は、国鉄の非電化路線として作られることを前提に計画が進められていた。
最高速度は95km/h、ディーゼルカーによる運転という計画で、完全な地方のローカル線の条件だった。
しかし、1980年には国鉄路線としてのほくほく線の建設計画は凍結されてしまった。これは、国鉄が大幅な赤字を出していて経営難に陥っていたためである。
採算性がない路線はその後JR化に伴って廃線となったのと同じように、ほくほく線も初めから採算が合わないと判断されたために凍結された。
その後、第三セクター路線として建設して開業することとなった。さらに、1980年代後半には運輸省(今の国土交通省)からほくほく線に「スーパー特急」を走らせることが提案された。
これにより、北越急行ほくほく線とJRがそれぞれ乗り入れる特急列車を走らせるという方向に行き、結果的に特急はくたか号が走ることとなった。
このころ、北陸新幹線はまだ未着工の状態であり、しかも長野~金沢間はミニ新幹線として建設される計画だった。しかも、建設は高崎~長野間を優先的に行う一方、それ以外の区間は着工が見送られてきた。
160km/hへの高速化が実施された理由
北越急行ほくほく線を経由して越後湯沢~富山・金沢方面へ特急を走らせることが決まったことで、急いで線路を高速運転に対応できるように規格が変更された。
「スーパー特急」の運転も視野に入れた上で、将来的には160km/hでの運転を行うことを前提に設計を変更することとなった。最高速度200km/hでの運転も考慮されていた。
北陸新幹線の計画がすでにあったとはいえ、首都圏と北陸地方の交通手段の重要性があったのは確か。
建設財源が優先路線を除いて配分が先送りされる整備新幹線の問題もあったことで、北陸新幹線の建設すら進んでいなかった。
そこで、ほくほく線を高規格で建設することで特急の所要時間を短くして、利便性を図るという意図があった。
そして特急廃止、赤字へ
しかし、2005年頃になると北陸新幹線の未着工区間であった長野~金沢間の工事もいよいよスタートした。
これは、特急はくたか号の廃止を意味していた。2015年3月の北陸新幹線の開業でほくほく線を走る特急は消滅。
これまで、北越急行は特急列車の通過輸送による収入が全体の収入の90%を占めていた。地域の足である普通列車は10%にとどまっていた。
経営が黒字だったものの、貴重な収入源が絶たれたことで一気に赤字へ転落。今後は経営状況が良くなる見込みは完全にゼロである。
さらに、沿線の人口減少が進むと予測されている。将来的にはほくほく線そのものの存在意義もなくなるかもしれないという声も上がっている。
北越急行ほくほく線が廃線となる可能性も決してゼロであるとはいえない。