鉄道の朝の通勤ラッシュにおける混雑率の推移について取り上げる。満員電車の歴史として、ピーク時の混み具合は過去から現在までにどのように変化したのか。
昭和から平成、そして令和の時代へと変わっていく中で、首都圏・関西などの大都市部の各路線はいくらかは混雑が解消されたのは確か。
まだまだひどい事例が残っているのは確かだが、それでも以前よりは緩和されている。
目次
通勤ラッシュの歴史と混雑率の推移
昭和の終わりの時代でもあった1980年代は、日本の大都市部の鉄道各線はどこも今では考えられないくらいの混雑率を誇っていた。
200%台は当たり前。トップクラスになると250%を超える路線があった。
電車内はまったく身動きが取れない。乗客同士が圧迫するほど押し合った車内になっていた。現在はダイヤの乱れが発生したときに無理矢理電車に乗る人が殺到した場合などに限られる。
朝ラッシュになれば、上り列車はどれもすし詰め状態であったため、今のように電車の中でスマホの操作を行うような余裕は一切ない。当時は携帯電話もまだなかった時代のため、そのような必要性はないとしても、もはや地獄の様子を呈していたのは否定できない事実だ。
満員電車の起源は戦前、高度経済成長期に激化
通勤ラッシュの満員電車こそは早くも戦前からすでに存在していた。都市部においては、郊外と都市中心部を行き来するために、通勤客を中心に電車や汽車で激しく混み合う現象は見られた。
ただし、本格的に満員電車がひどくなったのは日本が高度経済成長期にあったころの時代である。当時はまだ「混雑率」という概念がなく、国土交通省(旧運輸省)でもそのような統計データは出していない。
しかし、想像するに混雑率=300%を超えるようなところもあったと考えられる。
以前は今とは違って鉄道路線の数が少なく、国鉄では特急列車も多くは運転されていたため、普通列車をはじめとする通勤型の電車の本数は少なかった。
複々線化も後になってから完成した設備のため、高度経済成長期のころはなかった。今よりも大幅に輸送力が不足していた。
混雑率ワースト10の推移
混雑率ワースト10の顔ぶれと数値の推移を見てみよう。
1986~2016年の10年ごとの統計データを見ると、路線名はあまり変化は見られないものの、混雑率の数値が大きく減少しているのがわかる。
今となっては200%未満にまで下がっているものの、昭和の終わりは250%を超えていた。
>>全国の鉄道路線別の「混雑率」のデータ一覧! 地区別に分類
1980年代の混雑率ワースト10
<1986年の混雑率ワースト10> | ||
路線 | 最混雑区間 | 混雑率 |
常磐線快速 | 松戸→北千住 | 271% |
総武線快速 | 新小岩→錦糸町 | 262% |
中央線快速 | 中野→新宿 | 260% |
京浜東北線 | 大井町→品川 | 257% |
横須賀線 | 保土ヶ谷→横浜 | 250% |
山手線(外回り) | 上野→御徒町 | 245% |
中央総武線各駅停車 | 錦糸町→両国 | 245% |
常磐線各駅停車 | 亀有→綾瀬 | 243% |
銀座線 | 赤坂見附→虎ノ門 | 241% |
千代田線 | 町屋→西日暮里 | 230% |
日比谷線 | 三ノ輪→入谷 | 230% |
1986年の混雑率のワーストランキングでは常磐線快速、総武線快速、中央線快速などがランクインしている。
長距離輸送を担う中距離電車の混雑が激しかったことが読み取れる。
すでに高度経済成長期は終わり、バブル経済へと突入する前の安定成長期ではあったものの、鉄道の混み具合は地獄だったことを示している。
総武線、常磐線、山手線、銀座線、日比谷線は今となっては混雑は落ち着いている。この時代はトップクラスだった背景には代替路線の未開業が一番大きい。
総武線は並行して京葉線、東葉高速鉄道が開業したこと、常磐線はつくばエクスプレスが開業したことが大きい。
山手線は上野東京ラインの開通による高崎線・宇都宮線の東京駅乗り入れの効果が大きい。
銀座線・日比谷線はバイパス路線として半蔵門線や都営三田線、南北線ができたことによる影響が大きい。
現在のように利用者が分散しなかったことも影響している。
1990年代の混雑率ワースト10
<1996年の混雑率ワースト10> | ||
路線 | 最混雑区間 | 混雑率 |
山手線(外回り) | 上野→御徒町 | 244% |
南武線 | 武蔵中原→武蔵小杉 | 243% |
常磐線各駅停車 | 亀有→綾瀬 | 243% |
京浜東北線 | 大井町→品川 | 242% |
埼京線 | 池袋→新宿 | 238% |
中央総武線各駅停車 | 錦糸町→両国 | 233% |
東海道線 | 川崎→品川 | 229% |
中央線快速 | 中野→新宿 | 228% |
常磐線快速 | 松戸→北千住 | 220% |
武蔵野線 | 東浦和→南浦和 | 219% |
総武線快速 | 新小岩→錦糸町 | 219% |
バブル崩壊が起こって日本経済が停滞した1990年代になると、鉄道の混雑率は若干ながら低下している。
ただし、顔ぶれに関しては1980年代とあまり変わってはいない。
まだまだ200%を超えている路線が多かった時代でもあり、輸送力不足が慢性的だったことは確か。
2000年代の混雑率ワースト10
<2006年の混雑率ワースト10> | ||
路線 | 最混雑区間 | 混雑率 |
山手線(外回り) | 上野→御徒町 | 216% |
中央線快速 | 中野→新宿 | 208% |
中央総武線各駅停車 | 錦糸町→両国 | 206% |
武蔵野線 | 東浦和→南浦和 | 202% |
埼京線 | 板橋→池袋 | 200% |
東西線 | 木場→門前仲町 | 199% |
京浜東北線 | 大井町→品川 | 198% |
東急田園都市線 | 池尻大橋→渋谷 | 196% |
京葉線 | 葛西臨海公園→新木場 | 196% |
南武線 | 武蔵中原→武蔵小杉 | 192% |
横浜線 | 大口→東神奈川 | 192% |
高崎線 | 宮原→大宮 | 192% |
2000年代に入ると、混雑率が200%を超える路線はごく一部に限られてくるようになった。
それと同時に、この頃になると中距離電車よりも近距離電車の方が激しく混むようになった。
東京一極集中が進む中で、郊外のエリアよりも東京23区とその周辺のように都心に近い地域へ人口が多くなったことが背景に上げられる。
2010年代の混雑率ワースト10
<2016年の混雑率ワースト10> | ||
路線 | 最混雑区間 | 混雑率 |
東西線 | 木場→門前仲町 | 199% |
中央総武線各駅停車 | 錦糸町→両国 | 198% |
小田急小田原線 | 世田谷代田→下北沢 | 192% |
横須賀線 | 武蔵小杉→西大井 | 191% |
南武線 | 武蔵中原→武蔵小杉 | 188% |
日暮里舎人ライナー | 赤土小学校前→西日暮里 | 188% |
中央線快速 | 中野→新宿 | 187% |
東海道線 | 川崎→品川 | 184% |
東急田園都市線 | 池尻大橋→渋谷 | 184% |
京浜東北線 | 大井町→品川 | 182% |
ますます東京一極集中が進んだ2016年の統計データでは、すべての路線にて混雑率が200%未満になっている。
かつてと比べると朝ラッシュのピークでも混雑が緩和されたことが読み取れる。
とはいえ、ここで登場する路線のほとんどは頭打ち気味にもなっている。これ以上混雑率が低下する可能性は期待できない。
1980年代よりも大幅に改善した路線は、複々線化や並行新線が開業したことによる影響が大きい。
郊外の人口減少などで鉄道利用者の数も減少したものの、抜本的に改善した事例を見るかぎりは、効果が期待できる対策を実施した路線に限られている。
なぜ混雑が解消した?
昭和から平成、そして令和の時代と変化する中で鉄道の通勤ラッシュの混雑が緩和された理由として、以下のようなことが考えられる。
- 複々線化、新線開業による供給力の拡大
- 乗車定員が多くなる新型車両の投入
- 都心回帰現象
特に大きいのが複々線化または並行する新規路線の開業という点である。
1990年代から2000年代、そしてそれ以降に新しくできた路線は結構ある。同じ沿線の地域の鉄道利用者が分散できるようになったため、乗客の総数が減少したことが大きい。
複々線化も推し進められたところが見られる。JR線(旧国鉄)は高度経済成長期には完成した例がほとんどだが、私鉄各社でも積極的に行われたことが大きい。
東武スカイツリーライン、東武東上線、西武池袋線、東急東横線・目黒線、東急田園都市線、小田急小田原線などで実施された。
さらに、乗車定員が大きい新型車両の投入も混雑の解消に一役買った面もある。
旧式の車両よりも幅が若干ながら広くなったことで、乗車定員が増えた。
そして、社会的な流れも影響している。最近では「東京一極集中」および「都心回帰」の現象が見られる。
都心部に近い地域に住み、長時間電車に乗り続ける必要がある郊外の地域に住むことが敬遠されるようになった。
地方の田舎の人口減少だけでなく。首都圏でも都心から少しでも離れているエリアにおいても人口減少が進むようになった。これが特に中距離電車の混雑緩和につながったものと考えられる。